何も持ってない私だから、

学生生活、失敗。留学、失敗。就活、失敗、今、そこそこ。これから、にまり。

比べる私ー 私は私。

持っていないことを、嘆かない。

過ぎた時間を、嘆かない。

 

持っているものを、見つめる。

今を、考える。

未来を、見据える。

 

私は、今、自分をどのようにも扱える。

ネガティヴに扱える。ポジティブに扱える。

40代の自分は、今の自分の積み重ねだ。

私は、20年後の自分を扱っている。

 

無いものを嘆く時間は無い。

 

私は、どんな大人になりたいんだろう。

今持っている何に、磨きをかけていくんだろう。

 

長所を、伸ばして伸ばして、磨いて磨いて。

 

私は、何が得意なんだろう。

 

最近気づいた。

 

私は、人の話を引き出し、乗っかり、また引き出し、ということが、少しは得意なのではと思う。

また、省み、反省し、修正する力の芽も、備えている。

先手必良 の心で「こちらから」働きかける力も、ある。

「こうするのだ」という、信念は、認めましょう、まだ持ち合わせていない。

外側からの「信念めいたもの」の付け焼き刃。

でも、私は、人の「もやもや」した部分を、少し言い当てることが出来そうだ。

それは、弱く、もやもやした存在である自分を、できる限り言葉で考えてきたからなのだと思う。そこは、多分、強みだ。

 

私は、悩む。

信念なき自分に、空虚を感じる。

でも、歩んできた道を、受け入れたい。

それは、確かだ。

 

私は、歩んできた道を、過去を、受け入れたい。

 

私は、悩む人のそばにいたい。

 

私は、空虚か?空っぽなのか?

 

そんな筈は断じて無い。私は、空虚ではない。

 

私は、偽りの自分を演じているのか?

 

俺は何者だ?俺は何からできているんだ?

 

アレも俺。コレも俺。

 

人の話に乗っかって、コントのようなことをふる俺も俺。

1人で、こんな得体の知れないことを考えているのも俺。

 

アレも俺。コレも俺。演じてなんかいない。楽しい方を選んでいる。心地の良い方を選んでいる。俺は、沢山いる。

 

俺は、沢山いる!

 

では、沢山いる俺に、何が共通するだろう。

 

他者をよく見て、接し方を変える。

自分をよく見て、考察する。

 

共通するのは、洞察力だと思う。

3月29日のまとめ

第2日目。

7時半頃起床。起き抜けに実家から連絡。

すぐに留守番電話につながってしまうらしい。対応必要。靴下送ったとのこと。30日の夜8-9時到着予定。ありがたい。助かる。

 

冷蔵庫。冷えが少し弱いか。しかし使用には問題ないと考える。

洗濯。大きな問題なし。ただ、風で飛ばされないよう洗濯バサミは必要。また、洗濯カゴか洗濯袋は便利なので購入検討。

入社式の持ち物確認。概ねよし。ただ、研修の着替え確認がまだ終わっていない。また、課題未了。

ガス開栓。来訪者は人の良さそうなお兄ちゃん。最初、私はインターホンの使い方が分からなかった。説明受ける。資料は緑の封筒。2万円は退去時返還。松本は山に囲まれているので晴れ多くおろし風強い。夏は昼夜の気温差大、乾燥し過ごしやすいか。

物干し竿購入。部屋干し用にも買ったが、1本で事足りるので返品。運搬時、竿を1度もぶつけなかったのはグッド。

市役所にて国民年金手続き、申請。

郵便局にて郵便物転送手続き。

警察署までの道のりは素晴らしい景色で、陳腐化もしれないがまさに「空を飛んでいる」ようだった。坂を登りきった先に北アルプスが雄大に開ける様子は、解放感に溢れる。

警察署にて免許住所変更手続き。免許証更新まもなく。どうする…?

業務スーパーで買い物。基本的な調味料と米を購入。レシートは家計簿参照。ピヨちゃん可愛かった。家から20分。

 

帰宅中、ラインにメッセージ。自分の配属に不安と劣等感を感じた自分を自覚。腹式呼吸を繰り返し冷静になる。また「大きな山の前では人間は皆対等でちっぽけな存在である」と唱え、不安や劣等感を否定せずとも、前向きに、手に入れた/与えられた環境で活躍しようと思う。

 

市役所手続きから帰宅まで、2時間30分。15時帰宅。

洗濯物にアイロンかけながら同期とライン。家に来る。何か「イイこと」を頭で期待したが、すぐに思い直す。自分勝手な欲をまた振りかざすのか。今まで後悔してきたじゃないか。本当に求めているのはなんだ。お互いが楽しく過ごせることじゃないのか。と。

 

同期到着まで準備。非常にテキパキ動けた。風呂入る。洗面器と洗顔ネットとスポンジ急要。部屋の掃除。掃除楽しい。諸々の整理。とにかく綺麗に整えた。お客さん用のコップと紙皿紙コップ、ざるとコーヒー、ジップロックを購入。米をジップロックに移し替えないと。

同期到着。1時間ほどしゃべる。日本酒をお土産でくれた。本当に嬉しい。マフラーも喜んでくれたようなので嬉しい。卒業式当日の忙しさ。台湾旅行ツアーの窮屈。気の置けない(知れない)友達とのお別れ会とその後の寂しさ。友達との席の楽しさ。孔子を「気の許しあえる友達のいなかった寂しい学問オタク」などとこき下ろす。美術館について。また突き抜けた画家たちの考察。学問的な知識と感性。とても楽しかった。美術館に一緒に行く約束。また遊びに来てね、来るよと。今度は、彼女の話をもっと分かろうとしよう。彼女の話に寄り添おう、と思った。とてもとても楽しかった。

….布団にかすかな彼女の匂い。

……よく出た。

きっとこれが正しい。手前の欲は手前で、目に見えない所で勝手に解消させるべきで、人を傷つけるようなことはやはりいけない。

 

ごはん炊ける。1.5合で軽くお茶碗大盛り2杯分。水は表示より少し少なめでよさそう。おかずは焼肉とふりかけ。明日は味噌汁を作ろう。美味しかった。

コーヒーを淹れて一息つく。まろやかな味。もう少し酸味と苦味があってもよい。

ワイシャツにアイロンをかける。楽しい。ただ、時間がかかった。手応えをつかむまでにはまだ掛かりそう。

電話。電話しておいてきっとよかったのだと思う。少し緊張する。でも普通にいけばいいんだろうし、普通にいくことしかできないとも思う。16時約束。

稀勢の里特集録画。感想別枠。

理科の問題取り組む。引っかかりまくる。改めて、ここは苦手で勉強必要とわかる。

歯を磨く。右奥の歯茎腫れ。水がしみる。優しく歯茎マッサージ。要経過観察。

レシートまとめる。今後も続けるよう。

使ったものを逐一片付ける。整理整頓頻繁に。

 

おしまい。おやすみなさい

 

引越し前夜

告白すると、家族がうっとおしくて堪らない、と思ってしまった。

家を出られてせいせいするわ、と。

 

父はいつも機嫌が悪い。

母は見事に父に引っ張られ機嫌が悪い。

子供らは、それを察して俯いている。

俺も大概ではあるのだが。

 

なんだか、硬質で、歪んだ家族だ。

自由の気風が、全くないのだ。

亭主関白で、いつも、顔色を伺っている。

父の機嫌に雰囲気は左右される。空気が支配されている感覚だ。

 

俺の、上の立場の人間の機嫌を伺い顔色を伺う性質は、父の存在によって育まれた。

俺は、父の機嫌が良くなる選択を繰り返してしまった。高校。大学。留学。

就活は、自分の意思で決めきることはできなかったにせよ、父の呪縛から逃れ、前向きであれたと思う。

俺の時間は俺の時間である。そういう主体性を、俺はこれから、ゼロから、育てていく。

 

これは、大変なことだ。

この年齢になって、主体性を育むというのは、大変なことだ。

 

でも、いつだって気付いた時がスタートだ。

それで、よいんだ。自分自身に、自信を持って自覚的になれたのは、ここ最近の2ヶ月ちょっとだ。そして、この2ヶ月は、悪くない2ヶ月だった。

 

だから、自分にもっと意識的になろう。

誰かの顔色ではなく、自分の信じるところと情報に従っていよう。

 

不必要に機嫌悪くはならないこと。

極力穏やかでいること。

先手必良で、且つ協力すること。

自分のイライラに客観的であること。

「機嫌が悪い」原因は、大抵コミュニケーション不足だから、先手必良で、きちんと話すこと。

先手必良で、自分からアクションを起こし、またより良い状況のためにこちらがしなやかに変化すること。

 

他人には他人の「理想のシナリオ」がある。

人の話=シナリオをよく聞き、また読むこと。

そして、必ずそこに思いを馳せてみること。

 

「人は皆違う」と心得ること。

思考も知識基盤も背景も全て違うということ。

思い通りになるものは少ないと知ること。

コミュニケーションは、とても複雑で豊かであると知ること。

他人は、思い通りにはならないこと。

自分のことは、思い通りにできると知ること。

だから、他人とは、自分の変わり方によっては、分かり合えること。

 

自分と他人は、宇宙から見たら同じようにちっぽけな動物で、全く対等であること。

本当は勝ちも負けもないこと。

だから、他者の幸せを、素直に喜べる心を磨き上げること。

 

責任を外に求めず、内に求め続けること。

外への愚痴を思っている自分を発見したら、深呼吸をしたり、前を向く文章を書いたり、体を動かしたりして、正しく(無闇に責めず、元気を取り戻せるよう) 労わること。

 

時間に意識的であること。

出来事が通り過ぎていくのを実感していること。

始まりがあれば必ず終わりがあると知ること。

変化の時が、必ず来るということ。

いい出来事を過ごすことが、いい時間を過ごすことであると知ること。

 

何が「いい」のかを、時々チェックすること。

感性と価値観を研いでいること。

よいと思ったら、よいとすること。

 

今のあり方が、出来事(時間)か、40代の人格に繋がっていくことに意識的であること。

 

そして、自分は今、60年の人生を走っているまだまだまだまだ途中であるということ。

 

ちっぽけな若者は、きっと大きくなれること。

 

 

引っ越し前前夜

ありがたいことだ。

3年間も一緒にいて、今も目を見て話せる人が、3人もいるなんて。

本当に、ありがたいことだ。とても楽しかった。

高田馬場で飲んだ時間が、とても愛おしかった。

愛おしかった。

また帰ってこれる。もっとよくなって、帰ってこられる。絶対に、帰る。

 

引っ越しが、すぐ近くになった。

この家に、いつ帰るかは分からないのだ。

留学の時のように、必ず1年後には帰ってくるのとは違う。

寂しい。怖い。時間が過ぎないでほしい。

「その時が来る」という感覚が、ひたひたとくる感覚が、「終わり」が。

 

その「タイミング」は、来てしまうのだ、遅かれ早かれ。

今、その「タイミング」が、「変わるタイミング」が、のど元に突き付けられている。

 

そして、「変化」がのど元を通り過ぎるには、しばらく時間がかかるのだろう。

 

面倒だ。怖い。嫌だ。不安だ。ここにいたい。変わりたくない。4月になっても父母のご飯が食べたい。お金の不安を突き付けられたくない。家事をするのは大変だ。仕事の負荷と一人暮らしの負荷を捌ききれるだろうか。

 

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俺は、どんな30代になりたい?どんな40代になりたい?

人間の真価が、人格の真価が否応なく試される境遇に立たざるを得なくなった時、俺は、どんな人間でありたい?

人間の真価は、30代、40代には、じわじわと外にまで滲み出てくると、人は言う。

俺は、どんな価値を、外側に滲ませる人間でありたい?

 

怖い。でも、少し、前を向こうと、思うのだろうか。

社会の役に立ちたいとは。

役に立っている実感が欲しい、ということだ。

 

人のため、というより、自分のため、だ。

「社会の役に立ちたい」の真意は「必要とされている快感を得たい」だ。

「社会の役に立ちたい」の真意は・・・

 

自分のしたことが、誰かの笑顔につながればうれしい。

自分のしたことが、誰かを支えていればうれしい。

自分のしたことが、誰かの心を柔らかくするのであればうれしい。

自分のしたことが、誰かの口の端に「今日ちょっといいことあってね」と登るならば、とてもうれしい。

 

そんな風に、つまり、私自身が望む評価を下されることが、私の望みであり、私の言う「社会の役に立ちたい」というフレーズの真意だ。

 

そう、自分が快感を得るため、自分のために、そうしているんだ。

 

プレゼントを渡すのだって、相手に喜んでほしいから渡すというより、相手の喜びが自分を肯定するものだから、その喜びが欲しいから渡すんだ。

 

自分が快感を得られなければ、「人のため」と言われても、私は絶対しない。

 

極論だけども、誰かを笑顔にするために靴の裏をなめろと言われても、私はそれをやりたくない。それは、私の望む、人を笑顔にさせるやり方ではないからだ。そして、そのように得られた笑顔は、私の望む笑顔ではないからだ。その喜びは、私を肯定する喜びではないからだ。

 

すると、誰かはこういう喜びを求めているのに、その喜びが私の求める「役立ち」と違う場合がある、という問題が起きてくる。

 

誰かは、ただただ受験に合格したい、其れだけを目指しているのに、私は、私自身が望む、しかしその人にとっては余計でしかない関わり方を、することがあるだろう。

私は、そこで、その誰かを嫌いになるだろう。

私の思うように、させてくれないからだ。私は、そういう人間だ。

また、私の望む理想のやり方で相手に接したにもかかわらず、何の反応も示してくれない、それどころか嫌な顔をされたら、私は相手を嫌うだろう。

私の理想に、応えてくれないからだ。私は、そういう人間だ。

 

「私のシナリオ通りにいけば、みんな幸せになるはずだ」

「私のシナリオが、この社会をもっとよくするのだ」

「だからさ、私のシナリオ通りに、反応してくれよ」

「その上で、ちょっとでも助かってくれよ。俺のシナリオを認めてくれよ。そうしたらこちらも嬉しいからさ」

 

しゃあないなぁ。

 

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自分は自分、相手は相手だ。

 

自分は、ある理想を描いたシナリオを持っている。

他人も、その人の理想を描いたシナリオをきっと持っている。

それは、それでいいんじゃないだろうか。

持っているシナリオを捨てる必要はない。

 

ただ、まずこちらから、相手のシナリオを試しに読んでみるのだ。

何を求めているのかな。元気かな。疲れているのかな。悩んでいるのかな。悲しいのかな。嬉しいことがあったのかな。話したいのかな。話したくないのかな。会いたいのかな。会いたくないのかな。

読み間違えていてもそれは「しゃあない」。読んで、推測してみることが大切だから。

 

そして、相手シナリオの推測に対して、自分シナリオにおいては、どう行動するのが、いいかなと考える。

その答えは、少なくとも自分の望みをある程度叶えるものだし、また相手の望みも叶える可能性の大きいものでもある。

 

相手のシナリオが、読み解けないこともある。また、とてもよくない答えが思い浮かぶこともある。往々にしてある。本当によくある。

 

そういう時は、思い込んだりせずに聞いてみるのが最もいい方法だ。聞いて、相手のシナリオを知ったうえで、自分のシナリオを断念せねばならない時は、我慢して断念する。それも「しゃーない」。人対人なのだから。

 

強引に、自分のシナリオと相手のシナリオを絡ませようとしないこと。

相手のシナリオをきちんと読んでみたうえで、自分のシナリオをバランスよく交差させること。

 

強引に絡ませれば、自分は満足するが、相手の不満は募るだろう。

私の口の端に相手の日向口と自己満足は乗るかもしれないが、相手の口の端には私の陰口が乗るに違いない。

 

交差させられれば、それは素敵で、自分は満足するし、相手も満足するだろう。

私の口の端に相手の日向口が乗り、相手の口の端に私の日向口が乗り、信頼は対等に積み重なるだろう。

 

少しずれてしまったら、それはお互いに「しゃーない」と言えるだろう。

 

「社会の役に立つ」は「必要とされている快感を得たい」だ。

それは「自分のシナリオ通りに必要とされる快感を得たい」だった。

でも、その定義は、最終的には破たんすることが、これまでの反省からわかる。

 

だから、少しの強さを纏えることを願い、こうしよう

「自分と相手のシナリオを、バランスよく交差させる快感を得たい」

 

私の「社会の役に立ちたい」とは

「自分と相手のシナリオがバランスよく交差した時の双方の喜びを得たい」である。