社会の役に立ちたいとは。
役に立っている実感が欲しい、ということだ。
人のため、というより、自分のため、だ。
「社会の役に立ちたい」の真意は「必要とされている快感を得たい」だ。
「社会の役に立ちたい」の真意は・・・
自分のしたことが、誰かの笑顔につながればうれしい。
自分のしたことが、誰かを支えていればうれしい。
自分のしたことが、誰かの心を柔らかくするのであればうれしい。
自分のしたことが、誰かの口の端に「今日ちょっといいことあってね」と登るならば、とてもうれしい。
そんな風に、つまり、私自身が望む評価を下されることが、私の望みであり、私の言う「社会の役に立ちたい」というフレーズの真意だ。
そう、自分が快感を得るため、自分のために、そうしているんだ。
プレゼントを渡すのだって、相手に喜んでほしいから渡すというより、相手の喜びが自分を肯定するものだから、その喜びが欲しいから渡すんだ。
自分が快感を得られなければ、「人のため」と言われても、私は絶対しない。
極論だけども、誰かを笑顔にするために靴の裏をなめろと言われても、私はそれをやりたくない。それは、私の望む、人を笑顔にさせるやり方ではないからだ。そして、そのように得られた笑顔は、私の望む笑顔ではないからだ。その喜びは、私を肯定する喜びではないからだ。
すると、誰かはこういう喜びを求めているのに、その喜びが私の求める「役立ち」と違う場合がある、という問題が起きてくる。
誰かは、ただただ受験に合格したい、其れだけを目指しているのに、私は、私自身が望む、しかしその人にとっては余計でしかない関わり方を、することがあるだろう。
私は、そこで、その誰かを嫌いになるだろう。
私の思うように、させてくれないからだ。私は、そういう人間だ。
また、私の望む理想のやり方で相手に接したにもかかわらず、何の反応も示してくれない、それどころか嫌な顔をされたら、私は相手を嫌うだろう。
私の理想に、応えてくれないからだ。私は、そういう人間だ。
「私のシナリオ通りにいけば、みんな幸せになるはずだ」
「私のシナリオが、この社会をもっとよくするのだ」
「だからさ、私のシナリオ通りに、反応してくれよ」
「その上で、ちょっとでも助かってくれよ。俺のシナリオを認めてくれよ。そうしたらこちらも嬉しいからさ」
しゃあないなぁ。
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自分は自分、相手は相手だ。
自分は、ある理想を描いたシナリオを持っている。
他人も、その人の理想を描いたシナリオをきっと持っている。
それは、それでいいんじゃないだろうか。
持っているシナリオを捨てる必要はない。
ただ、まずこちらから、相手のシナリオを試しに読んでみるのだ。
何を求めているのかな。元気かな。疲れているのかな。悩んでいるのかな。悲しいのかな。嬉しいことがあったのかな。話したいのかな。話したくないのかな。会いたいのかな。会いたくないのかな。
読み間違えていてもそれは「しゃあない」。読んで、推測してみることが大切だから。
そして、相手シナリオの推測に対して、自分シナリオにおいては、どう行動するのが、いいかなと考える。
その答えは、少なくとも自分の望みをある程度叶えるものだし、また相手の望みも叶える可能性の大きいものでもある。
相手のシナリオが、読み解けないこともある。また、とてもよくない答えが思い浮かぶこともある。往々にしてある。本当によくある。
そういう時は、思い込んだりせずに聞いてみるのが最もいい方法だ。聞いて、相手のシナリオを知ったうえで、自分のシナリオを断念せねばならない時は、我慢して断念する。それも「しゃーない」。人対人なのだから。
強引に、自分のシナリオと相手のシナリオを絡ませようとしないこと。
相手のシナリオをきちんと読んでみたうえで、自分のシナリオをバランスよく交差させること。
強引に絡ませれば、自分は満足するが、相手の不満は募るだろう。
私の口の端に相手の日向口と自己満足は乗るかもしれないが、相手の口の端には私の陰口が乗るに違いない。
交差させられれば、それは素敵で、自分は満足するし、相手も満足するだろう。
私の口の端に相手の日向口が乗り、相手の口の端に私の日向口が乗り、信頼は対等に積み重なるだろう。
少しずれてしまったら、それはお互いに「しゃーない」と言えるだろう。
「社会の役に立つ」は「必要とされている快感を得たい」だ。
それは「自分のシナリオ通りに必要とされる快感を得たい」だった。
でも、その定義は、最終的には破たんすることが、これまでの反省からわかる。
だから、少しの強さを纏えることを願い、こうしよう
「自分と相手のシナリオを、バランスよく交差させる快感を得たい」
私の「社会の役に立ちたい」とは
「自分と相手のシナリオがバランスよく交差した時の双方の喜びを得たい」である。