何も持ってない私だから、

学生生活、失敗。留学、失敗。就活、失敗、今、そこそこ。これから、にまり。

過去の失敗は、肥やしにします

私は、人間関係の構築に自信がありませんでした。

たくさんの非礼と、無礼と、失敗を、犯してきたからです。

沢山の人を傷つけました。沢山の人を悲しませました。沢山の人に迷惑をかけてしまいました。

それ故、私は新しい人の前に立つと、ぎこちなくなってしまいます。また、失敗して、離れていってしまうんじゃないか。調子に、乗ってしまうんじゃないか。

 

同じ失敗は、繰り返したくないのです。

 

過去の失敗に、現在の自分を、導きられはすれども、縛られてはいけないのでしょうね。

 

過去の失敗に落ち込むのではないのです。

失敗だったと気付いただけ、ヨシ、とします。

 

人の気持ちを考えられているか?

言葉は慎重か?

2人以上の対人関係において、自分の快楽だけに向かってはいないか?

感情的に、なりすぎていないか?

人を、戦いの場に勝手に持ち込んでいないか?

勝ち負けで人を評価していないか?

見た目だけで人を評価していないか?

人を見下してはいないか?逆に、見上げて卑屈になってはいないか?

差し伸べられた手を、素直に掴めているか?

手を、差し伸べられているか?

言葉を、大切にできているか?

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そういう、人になろうと決めるきっかけを掴めた幸運なのだと、言えるように。

 

精神の自由を、この瞬間を選ぶことを、忘れないで。

やる気がでません。口癖が「面倒くさい」になっています。

 

私は、やる気がある時期と面倒くさいに溢れる時期とを、行ったり来たりしています。

しばらくして、状況が変わり、自分も変わらざるを得ないことが焦りと共に思い出された時、私は後悔と共に、「今度こそは」と、やる気がある時期に立ち戻ります。

でも、それだと、いつまでたっても前に進めないのです。新しい景色を見ることはできないのです。

筋トレも、勉強も、英語も。姿勢も。思考も。

 

スキルだけなら、まだしも。

 

前向きな思考も。未来の可能性に挑もうという精神も。

謙虚に「できないこと」を認めて、できるようにする姿勢も。

「できること」を存分に伸ばそうとする姿勢も。

自分の人生に対する責任も。「戦わない」という心も。

「自分は自分・ひとはひと」のすみわけも。勝者・敗者にとらわれない自由も。

他者のことを思いやる、つよいやさしさも。

そういう、真の意味で育てなければならない人間性も、内面性も、いつまで経ってもよくはならないのです。また、同じ間違いを犯すに違いないのです。

 

思い出しなさい。思い出すんです。

 

だるいなら、疲れたなら、少しペースを落としてもよい。よいけれども、

自分が目指す理想像を忘れないで。自分の人生と時間に責任を感じて。

今この瞬間がそのまま未来になることを忘れないで。

今この瞬間が、10年後の自分であることを覚えていて。

いつでも、気持ちを凛とさせていて。背筋をしゃんと伸ばしていて。

 

今、この瞬間が未来になることを、忘れないで、いつまでも覚えていて。

無意識の美しさは、真の美しさなのでしょうか。

美しい山は、美しい海は、そこにあるべくしてあります。

彼らは、決して「美しくあろう」と思って、美しくあるのではありません。

あらゆる意識、思惑、意図は、その美しさには微塵も含まれていないのです。

ただ「そう」在るだけで、彼らは美しい。

 

無我の境地というものが、この美しさにあたるのでしょうか。

 

私は、無我の美しさを、この人生の中で、一瞬でも手にすることができるのでしょうか?

人間は感情の存在であると考えます。

人間は、感情の存在です。

父でさえ、感情の存在です。

私も、感情の存在です。

疑われることに、非常に強い反発の感情を抱きました。

疑われるようなことがなければ、動じなければよいのに。

父に言われたから、むっとなったのかもしれません。

また、「ありがとう」の一言がないから、むっとなったのかもしれません。

どれも、私がむっとなった理由でありますが。

どれも、非常に感情的な理由であることが分かります。

 

別に、私は感情の存在を免れないので、悪いことではないと思います。

けれども、別に、感情は事実とは違うので、ふっと吹き消すことができますし、ふうと鎮めることもできます。

また、言葉にして伝えることで、事実にすることができます。

感情は、良い方に豊かでありたいものです。

悪い感情は、ふっと、吹き消すことができますように。

 

ふっ。

就職活動は、少しトラウマです。

今年の就職活動が始まりました。

 

私は、就職活動にいい思い出がありません。

私の就活は、最初から最後まで、目的を探し求めて迷い、自分自身の欠点をあげつらっては落ち込むことの繰り返しでしたから。

悪い孤独(求めるものへ脇目も振らずに突き進む孤独ではなく、周りと自分を見比べて、友人が少ないことを思い悩みながら過ごす孤独)に、苛まれる毎日でした。

中途半端な日々でした。でも、どうすることもできませんでした。

就活、あの合同説明会、あのスーツの群れ、私は、それらを見て、なんだか寂しい気持ちになります。寂しかった。不安でいっぱいだった。打ちひしがれて逃げた。寂しさ、悔しさ、何より、自分を責めてしまう。

 

もっと、違った風にはできなかったのか?

なぜ、早くから助けを求められなかったのか?

なぜ、最初から一人でしようとおもったのか?

なぜ、あんなにプライドが高かったのか?

なぜ、等身大の自分を認めてあげられなかったのか?

 

過ぎてしまった時間です。所詮、過去です。

 

助けを求めることは、決して負けじゃないよ。

君を助けてくれる人は、君の周りにたくさんいるよ。

人の話に耳を傾けて、自分をしなやかに変えることは、絶対に負けじゃないよ。

等身大の自分を、できることと苦手なことがある自分を、愛そうよ。

 

他の人の価値観にとらわれすぎないで。他の人の価値観を、決して責めないで。

決して、持っている人を責めたりしてはいけないよ。それは、責任転嫁だよ。

自分の人生を、本当につまらない妬みの生産や、他人との比較に費やすんじゃない。

 

そして、自分の価値観をしっかり愛そうよ。

 

認める。受け入れる。

決して戦わない。絶対に、勝ち・負けなどない。決して責任転嫁的行動をしない。

自分の人生に、自分の時間に、自分の”秒”に責任を持っていますか?

 

私は、何度も繰り返すでしょう。自分の人生に、責任を持てているだろうか?

前を向いて、人と自分にやさしくありたいのです。

私は本当に、特別な、スペシャルな、才能にあふれる、決まった目的に突き進むタイプの人間ではないのです。

 

私は、1日1日を、日々を、小さく小さく繰り返し、小さく小さく積み重ねながら、ほんの少しずつ高みを目指そうと思うのです。

 

その結果、特別ではないけれど、掛け替えのない存在として、ありたいのです。

「夜と霧」を読みました。

精神心理学者フランクルの「夜と霧」を読みました。

 

フランクルのこの本は、私の隣にあって共に反省してくれる本でありました。

私は、フランクルと一緒に、自分自身を反省しました。

フランクルは、決して「反省せよ」とは言いません。

フランクルは私の隣に座って、彼自身の反省を行い、私も、私自身の反省を行った。そんな読後感です。

 

私は、この本を「凄惨な体験記」であるとは理解できませんでした。それは、ひょっとしたら訳の問題かもしれませんし、私自身の想像力の問題かもしれませんが。

私は、この本を「体験者の祈り」のようなものであると理解しました。凄惨な様を直接描写して見せるのではなく、それに巻き込まれた人間の内面を描き、それでもって、共に反省しよく生きましょうと、一緒に祈るような本だと理解しました。

 

多くの読者の方が、新訳はあまりに柔らかで、フランクルの壮絶な体験を、壮絶な痛みと苦しみを、抽出しきれていないと指摘しています。

確かに、身に迫る恐怖や恐ろしさを、私はあまり感じませんでした。流れるように目が動き文字を読んでしまえもしました。

ただ、その柔らかな文体は、目が流れてしまうことを意識させ、逆に何度も読み返し理解を深めようと注意させましたし、私が持つ豊富でない語彙と対応させやすく、その結果自らの言葉で、反省することができました。

旧約も読んでみます。きっと、新訳になく旧訳にある素晴らしさに気付けるのだと思います。