何も持ってない私だから、

学生生活、失敗。留学、失敗。就活、失敗、今、そこそこ。これから、にまり。

引っ越し前前夜

ありがたいことだ。

3年間も一緒にいて、今も目を見て話せる人が、3人もいるなんて。

本当に、ありがたいことだ。とても楽しかった。

高田馬場で飲んだ時間が、とても愛おしかった。

愛おしかった。

また帰ってこれる。もっとよくなって、帰ってこられる。絶対に、帰る。

 

引っ越しが、すぐ近くになった。

この家に、いつ帰るかは分からないのだ。

留学の時のように、必ず1年後には帰ってくるのとは違う。

寂しい。怖い。時間が過ぎないでほしい。

「その時が来る」という感覚が、ひたひたとくる感覚が、「終わり」が。

 

その「タイミング」は、来てしまうのだ、遅かれ早かれ。

今、その「タイミング」が、「変わるタイミング」が、のど元に突き付けられている。

 

そして、「変化」がのど元を通り過ぎるには、しばらく時間がかかるのだろう。

 

面倒だ。怖い。嫌だ。不安だ。ここにいたい。変わりたくない。4月になっても父母のご飯が食べたい。お金の不安を突き付けられたくない。家事をするのは大変だ。仕事の負荷と一人暮らしの負荷を捌ききれるだろうか。

 

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俺は、どんな30代になりたい?どんな40代になりたい?

人間の真価が、人格の真価が否応なく試される境遇に立たざるを得なくなった時、俺は、どんな人間でありたい?

人間の真価は、30代、40代には、じわじわと外にまで滲み出てくると、人は言う。

俺は、どんな価値を、外側に滲ませる人間でありたい?

 

怖い。でも、少し、前を向こうと、思うのだろうか。

社会の役に立ちたいとは。

役に立っている実感が欲しい、ということだ。

 

人のため、というより、自分のため、だ。

「社会の役に立ちたい」の真意は「必要とされている快感を得たい」だ。

「社会の役に立ちたい」の真意は・・・

 

自分のしたことが、誰かの笑顔につながればうれしい。

自分のしたことが、誰かを支えていればうれしい。

自分のしたことが、誰かの心を柔らかくするのであればうれしい。

自分のしたことが、誰かの口の端に「今日ちょっといいことあってね」と登るならば、とてもうれしい。

 

そんな風に、つまり、私自身が望む評価を下されることが、私の望みであり、私の言う「社会の役に立ちたい」というフレーズの真意だ。

 

そう、自分が快感を得るため、自分のために、そうしているんだ。

 

プレゼントを渡すのだって、相手に喜んでほしいから渡すというより、相手の喜びが自分を肯定するものだから、その喜びが欲しいから渡すんだ。

 

自分が快感を得られなければ、「人のため」と言われても、私は絶対しない。

 

極論だけども、誰かを笑顔にするために靴の裏をなめろと言われても、私はそれをやりたくない。それは、私の望む、人を笑顔にさせるやり方ではないからだ。そして、そのように得られた笑顔は、私の望む笑顔ではないからだ。その喜びは、私を肯定する喜びではないからだ。

 

すると、誰かはこういう喜びを求めているのに、その喜びが私の求める「役立ち」と違う場合がある、という問題が起きてくる。

 

誰かは、ただただ受験に合格したい、其れだけを目指しているのに、私は、私自身が望む、しかしその人にとっては余計でしかない関わり方を、することがあるだろう。

私は、そこで、その誰かを嫌いになるだろう。

私の思うように、させてくれないからだ。私は、そういう人間だ。

また、私の望む理想のやり方で相手に接したにもかかわらず、何の反応も示してくれない、それどころか嫌な顔をされたら、私は相手を嫌うだろう。

私の理想に、応えてくれないからだ。私は、そういう人間だ。

 

「私のシナリオ通りにいけば、みんな幸せになるはずだ」

「私のシナリオが、この社会をもっとよくするのだ」

「だからさ、私のシナリオ通りに、反応してくれよ」

「その上で、ちょっとでも助かってくれよ。俺のシナリオを認めてくれよ。そうしたらこちらも嬉しいからさ」

 

しゃあないなぁ。

 

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自分は自分、相手は相手だ。

 

自分は、ある理想を描いたシナリオを持っている。

他人も、その人の理想を描いたシナリオをきっと持っている。

それは、それでいいんじゃないだろうか。

持っているシナリオを捨てる必要はない。

 

ただ、まずこちらから、相手のシナリオを試しに読んでみるのだ。

何を求めているのかな。元気かな。疲れているのかな。悩んでいるのかな。悲しいのかな。嬉しいことがあったのかな。話したいのかな。話したくないのかな。会いたいのかな。会いたくないのかな。

読み間違えていてもそれは「しゃあない」。読んで、推測してみることが大切だから。

 

そして、相手シナリオの推測に対して、自分シナリオにおいては、どう行動するのが、いいかなと考える。

その答えは、少なくとも自分の望みをある程度叶えるものだし、また相手の望みも叶える可能性の大きいものでもある。

 

相手のシナリオが、読み解けないこともある。また、とてもよくない答えが思い浮かぶこともある。往々にしてある。本当によくある。

 

そういう時は、思い込んだりせずに聞いてみるのが最もいい方法だ。聞いて、相手のシナリオを知ったうえで、自分のシナリオを断念せねばならない時は、我慢して断念する。それも「しゃーない」。人対人なのだから。

 

強引に、自分のシナリオと相手のシナリオを絡ませようとしないこと。

相手のシナリオをきちんと読んでみたうえで、自分のシナリオをバランスよく交差させること。

 

強引に絡ませれば、自分は満足するが、相手の不満は募るだろう。

私の口の端に相手の日向口と自己満足は乗るかもしれないが、相手の口の端には私の陰口が乗るに違いない。

 

交差させられれば、それは素敵で、自分は満足するし、相手も満足するだろう。

私の口の端に相手の日向口が乗り、相手の口の端に私の日向口が乗り、信頼は対等に積み重なるだろう。

 

少しずれてしまったら、それはお互いに「しゃーない」と言えるだろう。

 

「社会の役に立つ」は「必要とされている快感を得たい」だ。

それは「自分のシナリオ通りに必要とされる快感を得たい」だった。

でも、その定義は、最終的には破たんすることが、これまでの反省からわかる。

 

だから、少しの強さを纏えることを願い、こうしよう

「自分と相手のシナリオを、バランスよく交差させる快感を得たい」

 

私の「社会の役に立ちたい」とは

「自分と相手のシナリオがバランスよく交差した時の双方の喜びを得たい」である。

先手、必良

なんでも、こちらから関わる。

こちらから知ろうとする。

こちらから受け入れる。

こちらから理解に努める。

こちらから体験する。

こちらから経験する。

こちらから歩み寄る。

こちらから挨拶をする。

こちらから手を伸ばす。

こちらから頭をさげる。

こちらから。こちらから。

 

それが、先手必良。

思い悩むだけの「マジメ」は捨てています。

思い悩むだけの「マジメ」は、本当に有用な真面目ではなかった。

仕事・生活・人生に、自分の意義を持って実際に臨むこと、

その動的姿勢自体を、本当に価値ある真面目と呼ぶ。

 

自分の良心に照らして、よい、やろうと思うことは迅速に行動し、

社会の先輩の、力あるよい言葉を、自分自身で実行、体現し、

経験と失敗と成功から学び続け(私は経験からのみ、真の意味で学ぶことができる)

他者を支えその背中をぐいと押し上げる人間であるという根本願望を心から感じる。

 

経験からのみ、真の意味で学ぶことができる。

失敗し恥をかいたことは、もう間違えない。

成功し感動したことは、何度でも繰り返そうとする。

何が正しいかなどと思い悩むばかりの「マジメ」よりも、

良心から体験し、経験し体現し、苦労し乗り越え、成功し失敗し、恥をかき喜び学ぶ

真の真面目とは、そんな真面目でありたい!

せめて、自由である

せめて、固定観念や既存の物差しに囚われないようにします。それらから自由であります。

 

固定観念や既存の物差しは、ただこちらがラクをするための道具でしかありません。

こちらもあちらも、それでラクになるのなら、それでいい時もありますが、見ている世界が決して同じではない人間の間で、固定観念や既存の物差しは、多くの場合どちらかを、不自由に、困難に陥れているものです。

 

固定観念。既存の物差し。明確な理由なく押し付けられたルール。それらから、自由でありたい。そのための力が、私には不足しているのです。

まあ結局ネガティブです

あー体が歪む。顔が歪む。肋骨は浮き出る。頭蓋骨はぐんなりと曲がっている。骨盤は酷くずれている。げんなりだ。

 

げんなりだと、表情もげんなりしてくる。

なんて怖い顔。俺はこんな顔で周囲に接してしまっていたのか。

 

さあて。顔の歪みや体の歪みと、気持ちや表情と、すぐに直せるのは、気持ちや表情だから、やはり、気持ちや表情はげんなりさせたくないなと少しは思う。

 

表情がげんなりしていると、全体がげんなりと見える。

骨格やら顔やらのズレは、きっと表情がげんなりしていなければ、それほど気にはならないものだ。

 

げんなり顔が、体のズレを強調させる。

体のズレは、やっぱり恥ずかしい。

表情で隠す。

真面目系クズの最大の特徴は「自己保身」です

やらねばならない労を厭わない。

義は通す。

やらねばならぬことは、やらねばならぬ。

できるならやる。

できないならできるようにする。

自己保身に走らない。「面倒くさい」は、大抵自己保身である。

「面倒くさい」と「やらない方が状況が改善する」を、決して混同してはいけない。

 

やることは進んでやりきろう。

義は遠そう。

必要なことは、状況をよくするために必要だ。

できるならやる。

できないならできるようにする。

相手のことを考える。「面倒くさい」は、自分にとって「面倒」なだけだ。相手はそれを必要としている。